商     号  株式会社 肥後屋  (創業明治28 年)
   代  表  者

 代表取締役 加藤 吉男

   所  在  地

 〒101-0054 東京都千代田区神田錦町3丁目17番(肥後屋ビル)

   取引 銀行

 みずほ銀行 九段支店 神田支店

 三井住友銀行 神田支店

主な営業品目

 ・赤れんが全般(ガイアブリック)、製造、販売、施工
 ・耐火れんが全般、販売、施工
 ・大理石、御影石等石材販売、施工
 ・インターロッキング販売、施工

 ・歴史的れんが建造物の修理、保存、復元工事

 ・その他関連商品の販売、施工
 ・建設業者登録 東京都知事許可(般―28)第85058
          (れんが、タイル、ブロック工事業)

   工    場    ガイアブリックOEM工場 :  株式会社岡田煉瓦製造所  愛知県安城市根崎町西根283

 


〒101-0054 東京都千代田区神田錦町3丁目17番(肥後屋ビル) 電話番号:O3-3291-1925(代)

地下鉄東西線 竹橋駅b3出口 徒歩5分 

地下鉄都営三田線 神保町駅A9出口 徒歩5分

地下鉄都営新宿線 小川町駅B7出口 徒歩7分


沿 革

 当社は赤れんがの東京駅が竣工した大正3年(1914)にさかのぼること19年の明治28年(1895…日清戦争終結)に現在の地、千代田区神田錦町に開業いたしました。

 明治維新の新政府はさまざまな制度を取り入れ政府諸官衙の建設は欧風を模倣し、すべて欧風にするとしました。又その建設資材には煉瓦を使用するよう指導があり、煉瓦製造工場の建設に官民挙げて急ピッチで動き出しました。当初の大きな建設は銀座煉瓦街の建設、竹橋近衛兵営(竹橋陣営)の建設並びに富岡製糸場建設、関西では大阪造幣寮の建設でした。
 このような時代背景の中、かねてより九州熊本より上京し機会を計っていた創業者の加藤民五郎(1868-1932)は、明治28年1月(1895)現在の会社所在地、千代田区神田錦町(錦町河岸際)に店を構えたのです。当地は産業の要である東京の中心であり、しかも建設の主要資材である煉瓦を取扱い、物流の利便性が高い河岸(当時は舟便が主力で荷馬車、大八車配達)という絶好の立地条件を選定し、スタートしたことは誠に驚きです。
 そして36年間懸命な営業活動により大手製造メーカーである日本煉瓦製造(株)、品川白煉瓦(株)並びに日の丸窯業(株)、秩父セメント(株)そして全国の赤煉瓦製造会社の販売権を得て官庁関係、地方自治体、建設会社、新日本製鐵(株)、日本鋼管(株)、住友金属工業(株)等鉄鋼関係並びに建材店への窯業製品全般の販売を可能としたのです。
 この初代民五郎の機転の利いた経営力は昭和7年(1932)に2代目代表加藤民五郎 (1896-1949)、昭和24年(1949)より3代目社長は初代民五郎八男の加藤貞吉(1914-1976)に引き継がれました。昭和51年(1976)父貞吉の急逝により、4代目社長加藤吉男(1953- )が、23歳の若さで就任しました。
 時は変化の時代を迎えており赤煉瓦需要も鉄鋼中心から住環境整備と云う広い分野での異業種との厳しい競争の中でしたが、多角的に展開し工事部門への進出、舗装煉瓦の開発と製造販売(ブランド名:ガイアブリック)さらに赤煉瓦建造物の修理・保存工事への参入など新分野への改革を行い現在に至っています。
 なお肥後屋の社名の由来は創業者加藤民五郎が、肥後国(現在の熊本県)より上京し故郷を偲び名付けたものです。人と地球にやさしい都市環境づくりに「れんが」の秘めた特性を念頭に、今後とも新製品と技術の開発に安全、安心、信 頼、感謝をモットーに精進してまいります。 

※創業時の肥後屋と竹橋陣営についてのエピソード
明治4年造営完了後も陣営内では度々煉瓦建築があり、その資材である煉瓦を初代民五郎が創業前から盛んに納品していたと伝えられている。交通と水運の利便性に優れた当地と近々にある竹橋陣営との繋がりは、日本橋川と東京国立近代美術館工芸館として今に残っている。
※写真は東京国立近代美術館工芸館
 この建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したもので、明治43(1910)年3月、竹橋近衛兵営(竹橋陣営)の一角に建築されました。日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財で、昭和47(1972)年に国の重要文化財に指定されました。